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zoom RSS 絵画論その25 偶然の取り扱い

<<   作成日時 : 2014/08/07 13:17   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 1 / コメント 1

「「絵」の世界は広く、種類も様々です。その中で「壁に飾って大勢の人に長年見てもらう」という目的の絵があり、ここではそれを「絵画」と呼んでいます。この目的を満たすためには、自由な絵の世界の中で、縛りや制限が必要となります。これは悪いことではなく、作品を作るための指針となったり、「決められた状況の中でいかに多様な技を発揮するか」という枠組みを与えてくれます。

今回のテーマは「自然、偶然、必然」です。ピカソやそれに似た抽象絵画は、何も考えず、好き勝手描いている様にしか見えないと思います。逆に、リアルな写実画の場合、正確に写すだけだから余計なことを考える必要が無いと考える人がいます。どちらも「何も考える必要が無い」ということになりそうですが、どうなんでしょうか。これらについて、偶然と必然のパランスという点から話してみたいと思います。


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▼この世界の美しい素材
いきなりですが、この世界には美しいものが沢山あります。それらは、何も手を加えなくても、ただ存在するだけで人を魅了する力があります。

例えば、山の頂上から見る日の出や、春の桜、秋の紅葉など、自然現象はもちろんのことですが、ヨーロッパの街並みや、世界的都市の夜景など、人工的なものも美しいです。また、生き物の造形や、人物のポーズも同じく美しいものでしょう。さらに、河原に落ちている素朴な石や、海の流木など、それだけで良いと思ってしまうものもたくさんあります。

これらはわかりやすい例ですが、人によっては何もない田舎の街並みや工業的なネジ製品まで美しいと評価することがあります。こうなるとこの世のものすべてが美しいのではないかと思っていきますが、多くの宗教が実際にそういうことを言っているような気がします。


このように、単に美しいだけのものなら、この世界には無限に存在します。そのため、、これらの素材を集めたり、分類して評価したり、展示する活動は枚挙に暇がありません。何に注目するかは制限がありませんし、一つのものに決めても集め出したらきりがありません。

・ある人が海岸に打ち上げられている流木を見て、素朴で作為の無い偶然の形に美を見出し、収集を始めた
・ある人が細かく砕いたガラスの欠片に色インクをたらし、光を当てたところ、とても美しい模様が現れた。
光の当て方と色の混ぜ方によって次々ときれいな模様が出来るので、何千枚も写真を撮った。
・ある人が河原で面白い形の石を見つけ…
・ある人が木の葉の虫食い後に美を感じ…
・ある人が雲の形に…
・ある人が…


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このように自然の織り成す偶然の面白さを見つけることはよくあることでしょう。テレビや雑誌でもよく紹介されます。このようなものはそこれこそ無限と言っていいほど発見することが出来ます。

これらの共通点は、自然が作る「偶然」に注目していることです。人は、自然との偶然の出会いを自分だけのもの、自分への何かのメッセージと受け取り、発見者として何とか他の人にも見せたいと思うことがあります。個展会場で見かける、偶然が作る作品群の展示がそれです。それぞれが美しく、バラエティーに富んでいるのですが、(あとで思い返すと、もう)一点目と十点目と三十点目の区別がつかない場合が多いです。

また、これらは偶然に手を加えず表現しています。あまりにも綺麗なので、そのままで十分だと思ってしまうのでしょう。これは、自分なりの解釈を加えていないということです。


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▼自然素材を写す
さて、今紹介したように、自然には様々な偶然があります。これらは自然が与えてくれる「素材」であり、ほとんど全ての絵画作品は、この世界の自然の素材を写しているのだと私は考えています。自然というのは草花や緑という意味ではなく、物理的な諸々全てという意味です。

例えばある絵画において、ものがあって、背景があって、空間が広がっていたなら、それも自然の何かです。その際、見たことない光景を描いていたとしても、他人がその絵を見て光景を連想できるなら、それはこの世界と同じ「何か」を描いたことになります。その何かを共有しているため、他人が見ても描かれているものを理解できるのです。幾何学模様まで行くとさすがに説明は難しいのですが、逆に、人はこの一つしかない世界に生きているので、この世界を参考にしないで描いた絵画はないと言っていいでしょう。(盲目の画家であってもこの世界のものを触って生きているので同じです。)

なぜこんな難しくて面倒くさい断言をしたのか。それは「どんな絵画も、この世界の何かを「素材」として利用している」ということを言いたいからです。この世界の光景、被写体、存在、作用などはすべて絵画の素材です。これら「現実の素材」無しに絵画は描けないと思います。(次の話のため、これが言いたかっただけなのですが、話が難しくなってしまいました。わからなくても問題ないのであまり気にしないでください。)


▼偶然だけ
自然や偶然の記録をとり、伝え続けるパターンには以下のような場合があると思います。
@美しく、心を動かせられるという事を発見した証を残す
A一連のシリーズにすることにより、無限の変化を表現する
Bどれも美しく甲乙つけがたいので、余裕がある限り収集する
C自分にとって身近で縁があるから記録する

しかし、これらの行為自体に意味があっても、一つ一つの作品としての価値は薄いでしょう。自然が作る偶然は、「素材」ではありますが、「作品」としては成り立ちません。あるいは、自然が作った作品と言えますが、私たちにとってはただの素材にすぎません。

これ等を踏まえて、絵画との関連を考えます。絵画は基本的にこの現実世界の一部を写す作業です。そのため、自然界の森羅万象が素材となりますが、逆に言えば「素材に過ぎない」のです。単なる切り取りや模倣では、作品とはなりません。「作品」は人が「意識的に」仕上げるもので、意図・狙い・技術・個性・新しさ等が必要です。

以前、絵画には「変換」が必要だと述べました。どのように変換させるかというのが個性であり、技術となります。偶然に任せた「だけ」の変換では、その絵は作品になりません。どのように変化させたいのか、ある程度自覚しておかないと、作品にならないでしょう。


▼リアルな絵はひとつでない
偶然について語るために、「リアルな絵」についても触れておきます。リアルな絵、写実的な絵について、一般人に誤解されていることがあります。それは、「リアルな絵の種類」についてです。

「ある景色を、真面目に、変更することなく、そのまま写せば、リアルな絵となる」「だから写実画は。、余計なことを考えない、機械的な作業だ」「リアルでない絵にはいろいろな描き足りないところがあるが、その部分を失くしていけばどれも同じ「上手い絵」にたどり着く」漠然とこのように考えている人が多いように思えます。

実際には、リアルな絵の描き方は、無数にあります。人が見て、「うわ、本物のようだ」と思わせる技法は様々です。
このとき、「写真のようだ」と慣用的に口にしてしまいがちですが、実際に写真と並べてみれば、「写真より実在感がある」と思うことでしょう。「写真のような絵」というのも実際にありますが、それは数あるリアルな絵の描き方の一つにすぎません。現実を再現させる方法はたくさんあるのです。

具体的にはどんな方法があるのか。どうすればそのような絵が描けるのか。そこで偶然が出てきます。

リアルな絵を自分で描く方法はどうあっても難しいものです。ただしそれは、既に技法が確立されているけども、習得するのが大変、といったものではなく、「ギャンブル」や「暗中模索」という感覚に近い難しさです。

まず、個人が意識的に使える絵画技法というものがあります。これは先人からの知恵の蓄積や、個人の実力、想像力や社会的環境などからなる、常識的な描き方です。その一方で、偶然に頼る絵画技法というのもあります。ペンキを垂らしたり、わざと道具や体を不自由にして描く方法などです。これらの関係をイラストにするとこうなると私は思っています。

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つまり、偶然を利用した絵の方が、はるかに広く、可能性も秘めているのです。そのため、何かものを描きたいと思った時に、狭い範囲の技量では足りず、広い範囲から方法を持ってくることが多くなってくるのです。特に、全体絵画の時に説明したような、存在感や質感、動きや固定した形が無いものを描きたいときは,どうしても偶然に頼りたくなってくる、と言うことができます。

「(天から画期的なアイディアが)降りてくる」という表現がありますが、まさにこれのことをさします。偶然の持つ不作為の効果が「もの以外の何か」を絵の中に採り入れてくれます。これを実感できるかどうかで絵が大きく違ってくると思います。
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▼偶然による模索
画家は偶然に何を期待しているのか。それは人の持つ習慣が関係してきます。私たちは目で見える形にかなりとらわれています。この常識的な見方が絵を描くときに障害となります。(「よく見て描く」と正反対の意見です。)これを何とか取り除きたい、ということで自分以外の存在である偶然に頼るのです。

「目に見えたものを絵にする」というプロセスの回路を断ち切り、自分以外の何かの回路とつながる現象をを求めます。それにより、くせをとること、パラダイムを脱却することのほかに、「流れ」や「極端」を絵の中に出現させることを期待します。

たとえば絵の具を流してみたり、色をたたきつけるなどします。こすったり、削ったり、にじませたり、引っかいたり、違った色を乗せたり、わざと明るくしたり、逆に真っ暗に描いたり
、下地に細工したりと、何かプラスアルファのものが出現しないかと期待をこめて作業します。このように偶然を使って平面に三次元の息吹が吹き込まれることを求めるのです。

偶然を使う場合、風景の中にある自然のあれこれを単なる素材とし、それと同じものが浮かび上がるように、キャンバス上でいろいろと試します。私は「自然の偶然に対し、人工的な偶然をぶつける」という感覚でこれを行っています。被写体も見るけども、それは写し取るためではなく、参考にしているだけなのです。

そして、これだ!と思う偶然をキャンバスに発見できたら、それを生かすように、絵を仕上げていきます。どうすれば上手くいくのか、答えは状況により変わるので、毎回悩むことになりますが、続けていくうちに良いものを発見しやすくなり、傾向や法則が分かってくるので、だんだん作業が早くなっていきます。


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▼ここでもミューズアイ
ところで、無作為に色々と描いた場合、どれが一番良いものなのかを、どうやって判断すればよいのでしょうか。ここで出てくるのが「ミューズアイ」です。

ミューズアイは私が絵画論第一回から提唱している造語で、ようするに「審美眼」のことなのですが、特に自分の絵を見る能力を表しています。絵画教室の生徒を見ていると、あれこれ描いていて、途中で、凄く上手くいっている線があるのに、それに気付かず、上から消してしまう、ということが(油絵では)よくあります。これは、ミューズアイが育っていないために起こることです。自分で描いた絵の良し悪し、例えば、たった今描いた線とさっき描いた線のどちらがよいのか、これがわからないと、模索しようがありません。

特に、偶然を利用する場合は、いくらでも候補が生まれるので、これだ!と判断できる能力が欲しくなります。そのためにもミューズアイは欠かせなくなってきます。絵画技法においては、偶然を味方にするのも実力、と言うことが出来るでしょう。

▼天然の持つ力
普通、お笑い芸人は、人々を笑わせるために、あれこれ計算して喋ります。ただ思い付くままに喋っただけでは、何も面白いことがおきないからです。つまり、おもしろいことを発生させるためには、何らかの計算が必要です。

ところが、「天然」と呼ばれるタイプの人がいます。このタイプの人は、本人はその気が無くても、喋ったり動いたりするだけで笑いが発生します。特に、天然は計算では決して生み出すことのできない、強烈なインパクトを与えるものを提供してくれます。しかし質が不安定で、扱いが難しいという特徴もあります。

絵画に採り入れたい偶然も、この天然という要素です。力強く、強烈なものを生み出してくれる可能性がありますが、それを描き手側が適切に制御しないとただの滅茶苦茶なだけとなります。食べ物でもお笑いでも天然は素晴しいものですが、これを絵画にも取り入れることができれば、すごく良い絵となります。


▼二つの偶然と必然
例えば、女性を描くとします。このとき、実在するその女性の姿かたちの情報を写すのは当然ですが、絵画はそれだけではありません。そのほかにもよれた線、はみ出た色、荒い筆遣いなど、時間的、偶然的要素も取り入れます。それにより、女性らしい感情など、目に見えないものも表現しやすくなります。

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絵画は「ある枠内の平面を何かで汚すことを楽しんだり、その汚した跡に意味を見出して楽しむもの」と言うこともできます。「汚し」とは具体的には色のついた油を塗ったり、ひっかいたり、色水をひたしたり、砂をまいたりです。そのとき、現実の何かに見えるようにすることもあれば、感情にうったえて偶然の効果を狙ったりすることもあります。この違いが大切です。同じ美しい絵でも、偶然の産物なのか必然の成果なのか、汚れが単なる汚れなのか、希少性の高い価値のあるものになっているのか否か、これらの見極めることが必要です。

自然の素材+人工的偶然+人工的必然の組み合わせによる描き方があるということです。特に人工的偶然のところは、私は「自然の偶然に人工の偶然をぶつける」という意識で作業を行っています。抽象画や変わった描き方の絵はこの人工的偶然の割合が大きいものとなります。それらの絵は素材を無視しているわけではありませんし、かといって何もかも計算して描いたわけでもありませんし、しかし適当に筆を動かしてそれで終わり、というわけでもありません。素材とにらめっこし、大胆で偶然的面白さを持つように狙いつつも、目標が絵に現れるまで作業を繰り返し、全体のバランスも整えているのです。

目をつぶってギャンブル的に操作を行ってできたものも、斬新さや面白さはありますが、大勢の人に見てもらうための普遍性や製作者の狙いが足りない作品となります。自然の素材そのままでも、自然を素直に写すように描くだけでも(こちらは難しいのですが)楽しいのですが、存在により迫る描き方を求めたとき、まだ不十分だと気づかされます。

▼上手くいったらよい
自分でもよくわからないことを利用することについて、抵抗がある人がいるかもしれません。しかし絵画は(沢山の人で共有する)学問でなく、個人的な活動なので、なぜそのように描けばうまくいくのかを、他人に説明する必要が基本的にありません。描いたものを世間に公表すればよいのです。

そこでもしも画期的な技法が含まれていれば、周囲は勝手にその技法を解析するでしょう。実際、絵画の本や番組ではそれが行われています。それらの解説の多くは、本人が説明したものではなく、専門家が調べたものとなっています。

もちろん、優秀な画家の場合、どうやって絵を描いているか、自覚していると思います。しかし、どうやってそれを思いついたかまでは説明できないのではないかと思います。実際、そこはあまり重要ではないはずです。

つまり、何かを描きたいと思った時、偶然に良い方法を見つけるまで、自分でもよくわからないことをあれこれ模索するのは普通だという事です。これは芸事全般に言えることだと思います。


▼偶然を大切に
「偶然」は絵画の持つまだ見ぬ可能性であり、
多くの人を魅了する不思議さであり、
マジックの種を見破られないようにする無秩序さであり、
もの以外を表現するために必要な技であり、
この現実界を再現するための自然であり、
莫大なパワーを持つ天然であり、
絵画活動に楽しみを与えてくれる作業でもあります。

絵画作品を仕上げるには、自然の偶然に頼る部分と個人感性による取捨選択の両方を使う、という話でした。わかってしまえば当たり前の話なのですが、やっている最中はこれらのことに気付かず、迷ってしまいがちです。これらの考え方は名画を鑑賞するときも使えます。大胆な偶然性を楽しむとともに、どうやって絵画としてまとめているか探ることで、あなたのミューズアイを育てることが出来ます。是非いろいろ試してみてください。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
いろいろ難しいですが「偶然を大切に」と言うのだけは分かりました。
マミケン
2014/08/08 12:50

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