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zoom RSS 絵画論その24 全体絵画の説明の続き

<<   作成日時 : 2014/05/23 19:50   >>

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はじめに
前々回に説明絵画の話をしました。これは「もの」に注目して描く絵だと説明しました。「もの」とは何か。それは具体的に形のある一つのかたまりのことでした。(英語で言うobject?)

それでは形がうつろな場合はどうでしょうか。例えば霧や虹、雲など、これらも「もの」なのでしょうか。絵画に限った話かもしれませんが、現象に注目して、それを直接描こうとすると、大抵「もの」になってしまいます。(「もの」として扱ってしまう。)

空を見上げ、そこに虹があれば、、キャンバスに「ハイ!虹!」と七色を塗る。草原に木々を描いて、霧を加えたければ、「ハイ!霧が出てます!白いです!」と絵の具を塗る…。このとき、「虹」も「霧」も頭の中で「木」や「山々」と同じ扱いになっています。つまり、「もの」であると解釈しています。

この様に説明絵画は、何でも「図の目」(光景を「もの」の集まりとしてとらえる見方。前回の絵画論参照)でとらえ、頭の中で固定し、キャンバスに加えて描いていく、という傾向があります。

前回はそれに対する「全体絵画」の解説をしました。これは「もの以外」を描き、「もの」が存在するようにして描いた絵でした。この絵の特徴に「描いた形跡が目に入らない」「目立たない」ということがあります。気配を消す、省略、引き算という発想で、「図の目」の反対の「地の目」で描きます。(ここまでが復習です。)

「もの」はともかく、「もの以外」が何かがわかりづらいと思います。そこで、今回は色々と例を挙げ、「もの以外」を見ていきましょう。

▼取り除く
浮世絵の版画は細い髪の毛一本一本が流れるような美しい線で表されています。よく見ると、その細い毛は、間を削って(彫って)表現されています。極端な話、もし下図左のように三本の細い毛だけ出そうとするならば、その線以外の全てを取り去る作業をしなければなりません。面倒くさいからといって少しでも荒く、彫り残しがあるとそこが別の何かに見えてしまいます。


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立体造形を扱う彫刻においても、地の目という発想は現れていると思います。仏師が木片から仏像を彫りだすときに、「私が像を作っているのではなく、木片の不要な部分を取り除いていて、真実の姿を残しているだけだ。」のようなことを話しているのを聞いたことがありませんか?実際、彫刻家は像を残すように彫っています。よく考えると、像そのものはいじってなく、全て像以外をノミや刃物で直接触っています。

何かを表現するためにそれ以外すべてを取り除く。全体絵画の最も単純な例と言えるでしょう。

▼月とヘッドライト
白い素材を使って満月が夜空に浮かぶ光景を描く場合を考えます。全体的に暗く塗り、明るい月は残すことと思います。出来上がった絵を見ると、月に意識が向き、実際に作業した暗い部分の方には意識が向かわないことでしょう。

次に、この満月の夜にヘッドライトを付けた車を加える場合を考えます。ヘッドライトを月よりも明るくしたい場合、どうしたらよいでしょうか。白色をこれ以上明るくすることはできません。そのため明るい白色をヘッドライトに譲り、月の明るさの方を抑えるようにしなければなりません。

さらに都会のビル群の明かりが後ろにある場合、それらの光量をどうするのかという問題も出来てます。このようい、明るいものが次々と加わることで、「それ以外の所」に手を加える必要が出てきます。一か所を整えるためにそれ以外の場所に手を加える、これも全体絵画の考えの例となっています。


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▼方向性
次の絵は十八世紀フランスの画家シャルダンの静物画です。


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描かれているものが力強く、存在感にあふれていながら、落ち着きのある素晴らしい絵です。絵の中にはぶどうやざくろ、ナイフ、水差しなどがあります。私たちが同じ光景を描くとき、どこに意識が向くでしょうか。この絵に現れている画家の意識とそれには大きな違いがあると思います。(色や形の正確さなど技術的なことは当り前ですが、それだけではありません。)

作者の意識はいろいろあるでしょうが、ここでは、個々の「もの」が画面全体の空間を制している点に注目しましょう。「もの」が空間を制するとは何か。まず、ひとつの「もの」の形と向きが、オーラのように周りに影響を与えていると考えます。


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例えば絵の中のざくろは、下図左の様な方向で、画面内に影響を与えています。もしもざくろの形を無造作に描くと、例えば下図右のように描くと、エネルギーの向きも変わり、画面の緊張感も無くなってしまいます。

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適当に描いた他よりもオリジナルが空間を制しているのがわかると思います。この観点でもう一度絵の中のものを一つ一つご覧ください。全体の中で個々が役割を完璧に演じています。

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方向性だけでなく、色、位置、大きさのバランスなど、お互いに殺しあわず、重ならず、出すぎず…といったように調和が保たれています。自分以外の空いている場所でさえ、方向性(流れ)によって見事に制御されています。日本人的に言うならば、絵の中の要素が互いに「空気を読んでいる」のです。これも全体絵画の特徴です。よくわからないという人も多いでしょうが、こういう考え方で、「深読み」しても大丈夫でしょう。作者がこういう調節をしながら描いたのはほぼ間違いないと思います。

▼色を散らす点
同じくシャルダンの絵です。まずはじっくりご覧ください。


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いろいろなことを思うかもしれませんが、ここでは左の小さな3色の点について注目してみましょう。まず、この3つの点の存在を皆さんは気付きましたか?自然にまぎれているので、指摘されるまで気付かなかったかもしれません。逆に一度気付くと、なんとなく気になるでしょう。この3つ並んだ不自然な点はなんなのか。直接調べたわけではありませんが、私なりに予想を述べてみます。

この絵では右の方で赤い花が一つの塊として描かれています。上にも少し赤い花が一か所あります。もしそのままなら、この絵は単調になってしまいます。ここで同じ色の点を左に小さく置くことによって、赤色を散らすことになり、全体として印象が和らぎます。これにより赤い花という「もの」であることを隠せるのです。絵全体のバランスのため、実際には存在していないかもしれないものを描く。これも全体絵画という発想の例だと言えるでしょう。


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(これは応用が可能です。例えば皆さんがリンゴ一個書くとき、赤い塊を一か所にドンと描くと、印象がきつくなります。そこで同じ色を画面のどこかに何とか紛れ込ませておけば、全体としてなんとなくおちついた絵になります。)

一応説明はしましたが、それにしても「不思議」な点だと思います。一体これはなんなのか。なぜ三色が並んでいるのか。正確なところは分かりませんが、全体絵画として何らかの効果が発生していることは確かだと思います。もしこの三つの点が無かったらこの絵はどうなるか。これがあることで全体はどうなっているのか。皆さんも自由に想像してみてください。

▼石膏像をどう見るか
石膏デッサンの話をしましょう。美術大学の予備校では石膏のデッサンをします。その石膏像の多くは歴史上の人物がモチーフになっていて、いくつかの有名なものがあります。

さて、その石膏像に関して、ほとんどの美術予備校生が習い始めの頃にやってしまうことがあります。それは石膏像を「人物の姿」として描こうとしてしまうことです。

こう言われても何がおかしいのかわからないかもしれません。石膏像は人物の姿をしています。それを人物として描くことの何がおかしいのか。

よく考えてみてください。どんな形をしていようが、それは凸凹した石膏の固まりです。(生きた)人ではありません。そのため、もしその「石膏像」を精密に描写するということは、凸凹した石膏の固まりとしてとらえ、描かなければなりません。石膏像のデッサンでは、「人」に見えるように描くのではなく、「(決められた)その石膏像」になるように描かなければなりません。これが学生の初期にありがちな勘違いです。



画像(「ビーナス」の石膏像)

さて、このことが理屈で分かっても、それでもやはり「人の姿」として見てしまう学生がほとんどです。特に、「目、鼻、口」に当たる部分を見ると、それが人間の部分であるかのように思ってしまう様です。

石膏像は「人(生き物)」ではなく「石膏(無生物)」です。デッサンではこの石膏を観察するのですから、当然「(たまたま人の形している)一つの石膏の固まり」となるように描かないといけません。単なる石膏の凸凹、傾き、白さ、重さなどを濃淡で正確に表すことで、その結果として人の顔のように見えるのです。

ところが、この理屈をいくら自分に言い聞かせても、人の目は騙されるのをやめてくれません。「あ!目だ!ここに口もある!じゃあこれは顔だ!」と勝手に意味を見つけてしまいます。それくらい人の習慣は強く、絵にもその「意味」が出てしまいます。そして、この部分を集中的に力を注いで描いてしまいます。本当は画面全体に力を注ぐべきなのですが。


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こういったクセを抜く方法として、美術学校では「像を横倒しにして描かせる」という事をします。こうするこどで、目や口に当たる部分は、顔の一部としての認識を弱め、それ以外の部分と同様の「一つの石膏の固まりの一部分」となり、生徒は形態のみを専念して描くようになるのです。

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皆さんも試しになじみのある有名人の顔写真や画像を、横や逆さにして見てみて下さい。何が映っているのか、あるいは誰が映っているのかすぐにわからなくなると思います。そして「誰だこの人は」または「なんだこの画像」という感覚に襲われると思います。(テレビの早押し企画などで出来そうです。)この見方により、あなたの目は、目のくぼみや、あごの下の暗い三日月形、額の白い反射光など、普段とは違った要素に注目するようになるでしょう。

普通の位置で見た場合は、そんなところに意識が向かっていないはずです。しかし本当は、そういったところも見ているのです。目は見ているけども、脳が顔の構成要素である目鼻口輪郭髪型などを優先し、合成させ、顔や表情の情報を提出してくるのです。説明絵画はこの作業をそのままなぞった絵だとも言えます。

▼形が一定でないもの
皆さんは目に見えないものや常に動いて定まらないものを描くのは苦手ではないかと思います。具体的には風、波、滝などです。写真を使って描く人も多いでしょう。

「川」も常に動いて定まらないものです。これを普通の方が描く場合、「ザーザー」と頭の中で言いながら、

水―→透明→色が無い→白絵の具
又は、水は青い→青→青絵具

という色遣いにしてしますようです。

同じく風を描くときは、わかりやすく線で動きを描いてしまう場合もあります。この時、当然のように実際の動きと同じ速さで筆を動かしています。これらの行動は「ものを画面につなぎとめようとしている」のです。ものと意識が同調し、ものを直接表現しようと描こうとする結果、このような描き方になってしまうのだと推測できます。そういう描き方もありますが、こんなときこそ全体絵画の発想で意識の転換をして、景色を見てほしいです。

例えば「川」をこんな風に見てはどうでしょうか。

「今私が見ている先に、暗い塊があり、細長い明るい部分が何か所かあって、黒いとんがっている部分の横にはもっと光の点々があって、奥の方は濃い緑と台形に区切られた薄茶の…」

これは「水」とか「岩」とか「草木」という言葉を使わずに風景を見た時の印象です。このときの注意点として、「◯◯より暗い◯◯の部分より上の…」と、観察しつつも具体的なものの名前を使わず(=脳の言語野を使わず)、かといって感覚的でもなく(決して「なんとなく」見ていない)、「関係性」だけに注目しています。一般的には「右脳的」と言われてる考え方でしょうか。とにかく直接眺めるのではなく、周辺と相互に絡めるように観察してください。いままでどうやって描いていいかわからなかったものにも対処できるようになるかもしれません。

▼綺麗なのは桜?
この原稿書いているときは桜の季節でした。「山や公園に行き、美しく咲く桜を描きたい」絵を描く人なら一度は思うことでしょう。Aさんもその中の一人だとします。

Aさんは美しいと思った桜を画面に再現しようと、綺麗なピンクや白で画面を塗り、飾ってみました。しかし期待通りの絵になりません。本当はピンクの桜に包まれ、柔らかな陽射し、そよぐ風の中にいる自分をも含めた雰囲気を表現したかったはずなのに。桜の木が植物図鑑か公園の案内看板のようになってしまいました。

さてこのAさんは、本当に綺麗な桜の花を描こうとしていたのでしょうか。これは技術の問題ではありません。気持ちや姿勢の確認です。例えば、同じ桜を切って移動させて、倉庫の中に置いてみたとすると、その桜はどのように見えるでしょうか。おそらく魅力は減っていることでしょう。

桜が真に美しく見えたのは、「自身を含むその時の景色がかもしだした雰囲気」が良かったからでしょう。土地も後ろの山も空も雲も陽射しも影響し合い、全てが桜を演出しています。当たり前のように思うかもしれませんが、絵を描くときにこれを忘れてはいけません。そういう目で眺めなくては「なぜ桜がきれいなのか」が正確には捉えられないからです。

大地は桜の木に安定と湿り気を、道は広さや動きを。空は明るさや開放感を…などなど。この中にあることを意識して、初めて桜の花びらのピンクや白がどの程度が適切か、現実の桜に近づけるかなどが分かってくるのです。

▼客目線か演者目線か
もう少し桜の例を続けます。春の満開の桜は美しいものです。Aさんも実際に桜を美しいと思ったから絵を描いたのでした。ところが、実はその「美しい」というのは個人的な感情にすぎません。極端に言えば自分の偏見でしかありません。そのため、個人的な偏見を偏見のまま表現すると、いくら描いても「その美しさ」を他人にうまく伝えられないという結果になります。本人はなぜ「この美しさ」が表現できないのだろうと不思議に思い、「これはまだまだ技術が足りないからだ」と考えて力量不足を嘆くことになります。

これは技術の問題というよりも、「表現に対する考え方」が大きく関係しています。何かを見て、「美しい」という印象を持った後、受け身の姿勢のまま「美しい」を表しても、なかなか再現できません。理由はいろいろ考えられますが、直接目に見えないものによって目に見えてるものが表現されているというのも大きな要因です。

「目に見えてるもの」の土台にある「目に見えないもの」の存在。ようするに「裏方さん」のことです。舞台上でスポットライトを浴びるスターの裏で、たくさんのスタッフが動いているのはご存じでしょう。もし彼らがいなければスターもスターとして輝くことが出来ません。だから一流スターは常にスタッフを大切にしているのです。

絵でも同じです。「美しさ」を本当に再現させたいのであれば、景色を美しく見せている、数多くの「目立たないもの」に注意を向ける必要があります。それらをできるだけ観察し、一つずつ確実に画面に反映、再現させることが必要となります。構成、要素、バランス…など、「神は細部に宿る」という言葉は絵画においても当然当てはまります。

また、スターは「観客席から自分がどのように見られているか」を常に気にしています。つまり、舞台上の自分と、客席からの自分の二つの意識を持ち続けているのです。同様に、景色を観察しているときも、「美しさに感動している自分」と、「美しさをもたらしている要因が分かる自分」の二つが必要です。

これは「主観」と「客観」を同時に存在させていることになります。「主観」は動機、描こうとする情熱的な気持ちのことです。(これが無い絵はちょっと悲しいです。)「客観」とは描く対象を冷静に再現する気持のことです。


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私たちは自分に関心があるものを、脳の中で都合よく作り変えてしまいます。だからこそ冷静に見つめる能力を育てるのです。(「自分は上手くいってる」と舞台の上だけで勝手に判断する芸能人は長続きしないでしょう。)これは描く前から備わっている場合もありますし、描きながら模索して磨いていくこともあります。どちらも重要な要素です。

もっと言うならば、現実の美しい景色を描くときは、自分が「現実の美を作る側」になる気持ちが大切です。

始めはどうしてもお客さんの立場にいることがほとんどです。そして美しい景色を見て、その「感想・印象」」を絵にしてしまいます。どうしても「私は景色を見て美しいと思いました」という感想の絵になります。これを見た第三者は「この人はこの景色に感動したんだろうなあ」ということは分かりますが、この絵から景色と同じくらいの美しさを見ることは、原理的に厳しくなります。

お客さんの立場から、自分が景色を作る側に変わってみましょう。自分が景色を作るのです。大地や空や花を用意するだけでは足りません。見る人に美しい景色だなあと思わせるようにしないといけない立場になります。そのために「自分が何故そう思ったのか」を、景色から抜き取って真似することになります。

もちろんこれは簡単なことではありませんが、少なくても「美しさを再現しようと、自分が用意した景色」となるはずです。もし上手くいけば、見る人が「ああ、美しい景色がここにある」と思ってくれるはずです。この立場、捉え方、姿勢も私の名付けた「全体絵画」という言葉にまとめられます。

例えば富士山を描くときでも同じです。雄大な台形に朝日が当たり、刻一刻と変化していく景色。見ているあなたは空の色を変え、周りの明るさ、透明感、光の強さ、木々の形や陰影など、自然の「助手」となり、一緒に景色を創る気分を持ってみましょう。

そうすると自分がこの風景のどこに感動しているのか、その時何を受け取ったのかが分かってきます。それは
「山に当たった光が周囲から浮き上がっている。下の方の岩陰が黒々と盛り上がっている。木々がギザギザに連なっている。全体的にほの暗い」
など、意外と<普通>の情報です。これらに焦点を合わせ、再現しようとすることが重要です。自分が、自分を含めた第三者に向けて、美しく感じた光景を再現、発表するのです。そうすることで「本物と同じような美しさを感じる絵」に近付くことができるのです。(もちろん、これは難しい作業です。)

精神論ばかりになってしまいました。絵は「いかに正確に(=機械的に)写すか」という作業でしかないと思っている人が多いようなので、こういう指摘があってもよいでしょう。

▼まとめ
いろいろな例で示したのは、「もの」に対する見方を変えることがいかに大変か、いかに皆さんが常識にとらわれているか、ということを考えてもらうためです。(それを生かして描くかどうかは別の問題です。)

まとめてみると、「全体絵画」は「もの」を直接描かず、描こうと思うもの以外の所を描くことによってそれを表す技法と言えます。『月は闇により、雲は青空により、表され、現れる』ということを忘れずにしたいものです。






次回→未定だけど二カ月以内更新目標
うさうさ堂の絵画論の一覧<絵画論記事のまとめ>

最近知ったのですが、記号論に「シグナル」と「シンボル」という対比の概念があるようです。これを借りれば「対象をシンボル(象徴)としてとらえているのが説明絵画だ」と一言で説明できます。ただし、「シグナル」のほうは難しいです。シグナル(信号)をそのまま正確に平面に写したものは「写真」となります。「三次元の(現実の)光景と<同じ>シグナルを脳が受けるよう」に(試行錯誤して)描くのが全体絵画的な写実画です。写実画でも何を"同じ"に選ぶかという自由度があります。

このように説明絵画と全体絵画という対比は、(理屈好きなら)いくらでも難しく語ることが出来ます。例えば、同じく言語学の「シニフィアン(意味するもの)」と「シニフィエ(意味されるもの)」という言葉を借りて説明することもできるでしょう。

個人的には全体絵画の話を聞くたびに数学っぽいなと思っています。(場所がバラバラであっても)距離や明度が等しいものを「同じ」仲間として捉えるという点でルベーグ積分の定義の考え方と似ていると感じています。区分・判定基準が先にあるのではなく、結果的な要素で区分・判定するところがポイントです。「帳尻を合わすように作業する」というのは他のプロの仕事でもよくある考え方でしょう。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
う〜〜む、難しいなぁ・・・
でも、いろんな方向で自分の絵を見直す姿勢は大切かもしれませんねぇ・・・
マミケン
2014/05/26 12:58

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