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zoom RSS 絵画論23 「ものに注目しない」見方

<<   作成日時 : 2014/01/28 22:57   >>

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前回は「普通」に描くとどうなるかということをお話しました。
今回は「それ以外の描き方もたくさんあるよ」ということについて話してみます。

▼「もの」を見ている
私たちは普段「もの」を見ることで生活を営んでいます。具体的には、目の前のテーブルや携帯電話、コップ、テレビ…などです。この絵画論での「もの」は、目に見えて、色があり、形があり、存在感があり、名前がある、具体的な「物体全体」のことを指します。これらを「もの」と呼んでいます。(「物」と書いてもよいのですが、「者」(=人物)も含むので、ひらがなにしています。)これらの「もの」に注意を向けることで、普通の日常を送ることが出来ています。

これは一見当たり前の様ですが、一種の「クセ」と言っていいと思います。なぜなら、これが絵を描く時に強く影響を及ぼすからです。

普通、私たちが何か描こうと思った場合、対象の「もの」に注目してしまいます。例えばリンゴを観察して描くとき、形と色に注目し、それを素直に描きます。つまり、「もの」を見ているので「もの」を描いてしまうのです。ほとんどの人が絵を描くときにこのようにしています。(前回の話はこのことを指摘したかったのです。)この絵画論ではこういう描き方を「ものを描く」と呼ぶことにします。そしてこの原因となる「ものに注目して見る」見方を「図の目」と呼ぶことにします。ネーミングについていろいろ考えたのですが、中々良い呼び方が思いつかないのでこれで許してください。

「ものを描く」以外の描き方があるのでしょうか。

あります。

ものを描かなくても、ものは表現出来ます。どうするかというと、「もの」という見方から離れ、その周囲全体の現象に注目し、それを描くことで結果的に「もの」が浮かび上がってくるようにするのです。こういう発想で観察する見方を「地の目」、そしてこの発想で描いた絵画を便宜上「全体絵画」と呼ぶことにします。もちろん造語です。これらの言葉は「絵画論その5 <ものとその周囲>から<地と図>の関係へ」に由来しています。


▼実際の技法ではない
気を付けてほしいのは、前回の説明絵画も、今回の全体絵画の話も、具体的な絵画技法(どのように線を引く、色を塗るなど)の話ではありません。これらは絵を描く心構え、アプローチ方法になります。描く前に、対象物をどのように見て、どのようにとらえて、どのように対処するか、といった態度、特に「見方」の説明になります。同じ絵画技法を使っても、説明絵画と全体絵画ではだいぶ違った絵になります。その辺りは次回話したいと思います。

被写体の見方の話だという事は、勘違いしないためにも重要なので、強く意識して頂きたいです。


▼解説
もう少し全体絵画の説明を続けます。
白いキャンバスにものを直接描く場合、一つ一つ独立したものとして、描き足していくことになります。この描き方でも光景を写し取れることもありますが、上手く描けないところも出てきます。

その一つとして、例えば「相互関係」があります。図の目でものを一つずつ描いていく場合、お互いの位置や光の量などのバランスをとるのがあっという間に難しくなります。

それに対し、地の目は、ものを基準にせず、別の要素を重視して描きます。具体的には画面の濃淡や面の角度、位置の共通性…。細かい説明は次回に回しますが、とにかく「地の目」はこのようなカテゴリーに注目します。こうすることでお互いの関係性が整った絵ができるのです。先に全体の関係を描くというのは以前の立体絵画の描き方で説明したこと(「絵画論その16 立体論W-空間を描くための心構え」)とほとんど同じです。

「ものをひとつひとつ描く場合でも、調整しながら描けばいいではないか」と思ったかもしれません。ところがこれは現実的ではありません。二つのものしか描かないのであれば、それらの関係一つに気を付ければいいのですが、ものが増えれば、それらの関係は爆発的に複雑になります。(人間関係と同じです。)実際は一つの絵の中に何千何万も「もの」があるので、足しながら関係性を整えていくのは実質的に無理と言えます。というよりも、もしも全ての関係性を整えたければ、適切な方法があるのだから、そちらの手段をとったほうが自然、とも言えます。

別の例として、でこぼこした「もの」の形状の、光の当たり具合に注目して光景を観察する方法があります。


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この見方では、上図で葉の一部分と石の側面と家とテーブルとカップの側面が「同じように光が当たっているところ」という点で「仲間どうし」になるのです。具体的な描き方はともかく、こういう発想に基づく絵もあるよということを私は言いたいのです。


▼なぜ全体絵画なのか
何のためにこのような見方をするのでしょうか。「普通」に描いてはいけないのでしょうか。もちろん何の問題もありません。この見方は「現実の光景を完全に再現したい」という欲求から生まれたのではないかと推測します。ものを直接描いていっても、それなりにリアルな光景を描けますが、さらなる追及、試行錯誤した結果、こうした地の目による見方が現れてきた気がします。

特に西洋は「リアル」が好きな傾向があると思います。彼らがもっともっとリアルに!と追及した結果がこの方法なのでしょう。ルネサンス以降の西洋絵画が恐ろしく写実的なのはこういう発想と技法の絵が多いからです。そこで描かれているものは「現実そっくり」とか「似ている」といったレベルではありません。彼らは完全に同じ光景を再現したかったのでしょう。強い欲求、もしかしたら脅迫概念に近いものがあったのかもしれません。完成された絵にはそのくらい鬼気迫ったものを感じることもあります。これらの絵は見た瞬間に「全体」がボン!と迫ってくる気がします。先に印象が来て、そのあと絵の内容が入ってくる感じがします。これは一枚の絵が全体として整っているからでしょう。(私が「全体絵画」と名付けた理由でもあります。)


▼ものではいけないのか
何故ものを描く方法ではこれほどの強い現実感を出せないのでしょうか。
答えは「二次元的になってしまうから」です。普通の人は、ものの見方、とらえ方を2次元的にしてしまいます。そしてそこから写して描く場合、やはり二次元的に描いてしまいます。キャンバスに描かれた絵は二次元のまま「転換」したものとなります。たくさんのものも、後ろの背景も、二次元的に捕えたのち、そのまま二次元として描いてしまいます。これでは現実感を出すのは難しいです。

そもそも絵画はどれも二次元です。キャンバスも平面ですし、絵の具も平面的に置いていきます。描かれる点も線も面も二次元です。どこまで行っても二次元です。つまり、絵画の道具は全て二次元なのです。このことはほとんどの人が気付いていないのですが、大切なことです。(私も最近気づいたのですが…。)


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そのため、どうにかして平面であることを隠さなければ、立体のものを正確に表現することはできません。この「平面を隠す」という発想が両者の違いの決め手になると私は思います。ものを普通に描く限り、平面は隠れませんが、全体絵画を上手く描けば、平面を隠すことができるのです。目の前の風景絵画の中に平面的な描写が無ければ、それは奥行きがある広大な世界となるはずなのです。


▼いろいろな課題
なぜ一般的に全体絵画のことが意識されないのでしょうか。
まず単純に《ものすごく難しい》ということがあります。普通の絵と少ししか違っていないように見えるため、《存在に気付きにくい》のです。見方を変える練習を積まないと、扱うのに厳しいものがあります。そのため極端に《数が少ない》です。昔の人が描いた全体絵画は美術館に入ってしまいます。西洋の美術館にある昔の名画にはこの全体絵画がたくさんあります。身近で直接見たことがある人はほとんどいないことになります。

写真やディスプレイなど、情報化されたものを通して見る場合は、その違いにさらに気づきにくくなるという事もあります。この辺りも認知度の低さの一つだと思います。

また、アカデミックな絵の練習や勉強をするとこういったことは当たり前な話になります。そして《努力の割には評価が受けづらい》傾向が現在の絵画界にはあります。「今更これを描いたところで…」という感じでしょうか。絵を描かない人には信じられないかもしれませんが、《昔から多くの画家があれこれとやりつくした感じがする》ので、描き手のモチベーションの問題でなかなか描けないのです。絵画界では常に新しさが求められるからです。すごさがわかりやすいので、一般層に人気はあるのですが…。

現在は二次元的な絵が見直されています。二次元的な表現でも、人の脳が三次元的に解釈してくれたり、逆に三次元を二次元的に転換した絵も、何かと刺激が褒められます。現在ではこの強くストレートな二次元絵画の方が主流になりつつある気がします。こういう絵は転換や驚きの余地がたくさんあるので、面白い絵が多いです。個人の転換術がいろいろ発揮できるのも魅力でしょう。

現代人は二次元的に見ることに慣れているため、需要も高いです。わかりやすさもこちらのほうが上です。特に日本人は、浮世絵に代表されるように、このような絵を好む傾向にある気がします。全体絵画が現在ほとんど注目されないのは、このような事情もあるからだと思います。(つまり《流行っていない》。)


何度でも書きますが、これらの話は芸術性や好き嫌い上手い下手という事ではありません。見るため描くための目を養うことそのもの(「ミューズアイ」)が話の基準になっています。そういった意味でこれらの話が少しでも役立っていただけるとうれしいです。



次回は具体例をあげて説明絵画と全体絵画の対比やそのほか補足など話す予定ですが
全くどうなるかわかりません。
うさうさ堂の絵画論の一覧<絵画論記事のまとめ>

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内 容 ニックネーム/日時
近年、デッサンや透視図法は、もしかしたら「西洋の悪しき風習」なんではないだろうか?と考え出しています。そうでなければ、絵のヘタなアンリ・ルソーや母親の方がうまかったユトリロなどがパリで人気になったのが理解できない。「科学」に縛られて息苦しくなった19世紀〜20世紀初頭、彼らはサロンのような「息苦しい絵」ではなく「自由」を求めた。それに敏感に反応したのが若き売れていないスペイン・バルセロナ出身の画家ピカソ。当時パリにいてピカソのアトリエを訪ねた、東洋の僻地・日本からきた藤田嗣治はアトリエに架かっていたアンリ・ルソーの絵にショックを受けたと言います。「どんな流れにも加わっていない絵」・・・それはピカソが通ったパリの博物館で見たアフリカ美術のお面と同じでした。西洋的リアルではない・・・でもそこには彼らだけの「真実」がありました。
マミケン
2014/01/29 09:16
前記事でコメントした者です。あれから絵画論をじっくり全部読みました。

>「現実の光景を完全に再現したい」
彼らは完全に同じ光景を再現したかったのでしょう。
私自身も、この描き方でやっているのですが、
(絵画論21の転換にもありましたが)三次元のものでも一度自分の頭の中でものすごく〈膨大な時間を使って→転換>
をして描いています。

何をどのようにどうやって描くかを一生懸命試行錯誤し、時には何時間も悩み考えて、
気持ちや・どう見えたかを
自分なりに見つけて、五感?で感じながら
それを平面の絵に書き起こしています。(自分のは立体・リアル的画風で+独特な感じです)

だから、つまりこの作業を私はしてるので
これを真似されたとすると(ちょっとこれは前回コメントで話したお話しなのですが)
私にはそれが分かってしまうわけなのです。

模倣されたのを偶然見付けてしまったのですが、
これにより、正直ショックでしかたありませんでした。
どれだけ苦しい思いもしたり、悩みながら、葛藤しながら頑張って描き起こしたことか。(たのしい気持ちももちろんもありますが。)
世に出すものの場合は(賞や作品など)、同業・同志達とできるだけ同じような物にはならないように
自分なりに個性を出す為にあれこれ試行錯誤もしているわけです。

それを私は真似されたわけなのですが、
ショックなのは、相手がその私から真似たものをまるで自分が思いついて描いたかのように堂々と絵のサイトにUPしているのです。

見て描いたような模写みたいなものでした。

これに対して、どうにか相手にアクションしようかとも考えましたが、
こちらのサイトを拝見し、対峙するのではなく、自分が今よりもっともっと頑張ることに決めました。(描き続ける+ミューズアイ)
しろくま
2014/02/02 05:23
続きです。
今回の出来事もそうですが、絵を描いててつくづく思うのはメンタルの操作の仕方がすごく大事に思います。
例えば自分と方向性が似てるような絵を描く人が自分の他にもいた場合、

見た人によっては
どちらかが先・後でパクったのかな?といった絵が生まれてしまう場合もあると思うのですが

たまたま似てしまったり、例えば好きなもののいい所を抽出している系統が似ている場合(最終的に転換しますが)
生み出す絵も似たパーツだったりといったことがありますよね。

こんなことは無視していればいいのかもしれませんが変ないいがかり?を言われたり、見る人は様々ですからどう見るかわかりませんし、。
これに対してはどう見ていけばいいかな(自分の心のもち方を)と思う時があります。

変な話しですが、今の時代は流れが加速しているように思うんですが、
自分が描こうと思っていたような世界観のものを先に描かれてしまったり。
それで、自分が出づらくなってしまったり。

ここまで話しましたが、
冒頭で述べた出来事に対して反応し(相手を排除しようと画策しました)てしまうのも
おかしな話しですが
要は後にも先にも自分の絵が誰かと似てる、DDのパクりなのでは?と思われたり言われるのが嫌でなぜか怖いのです(別に言われてませんが時折考えてしまう)
そう。自分がどういった状況であれ、批判をされるのが怖いんです。

しかし自分はパクってもいないし、自分の中で全てが交ざり、転換作業をして生み出しているのですから怖いとか考えなくてもいいはずなのですが、そう葛藤してしまうことが多々あるのです。

評価して頂けるような絵もちゃんと描けているのに、なのです。
だからこそ独自的な描き方をあれこれ一生懸命考えるわけなんですが。

続きます
しろくま
2014/02/02 05:35
続きです
ただ、思うのは
「同じものを描いた場合や似たような絵でも
よくよく見るとどこかが必ず違いがあるんじゃないか?」って私も思うんです。
これは描きながら絶えず自問自答してきたことです。絵画論にも書いてありましたが、育った環境などが皆違うわけですから
だから生み出る絵も必ず違いがあるはずなんですよね。わかります。

最終的な判断は絵から感じ取れる感覚で違いがわけられるんだろうと私も思っていました。
だけどこれをあまりよく分からない人はやんややんやと言いますよね。

絵を描く者はこれにどう向き合い上手く生き抜けていけばいいのか。
誰にも振り回されずぶれることなく絵を描いていきたい。今の自分にはたまたま今回の件で偶然たどり着いた<描き続ける+ミューズアイ>が支えです。
やっぱりこれなんですよね?

長々と書いてしまいましたが今回のような事は悩んでる人も結構いる気がします。
メンタル的な面からでも論理的にでも大丈夫なので(哲学とか論理的に考えるの好きなので)これからも励みに観覧さしていただきます。

※削ったのですが、、3回に分けてのコメントでスミマセン。。
しろくま
2014/02/02 05:39
しろくまさん、コメントありがとうございます。私の絵画論が少しでもお役に立ってうれしいです。いろいろと嫌な思いをされているご様子、でもまねをした人は ただしろくまさんの答えを写し取ってるだけです。新しい表現方法を創りだしたという事にこそ価値がある気がします。そのことに自信を持って、目を更なる絵の可能性だけに向けて 1枚でも多く素敵な絵を描いてください。
ブログ当主
2014/02/03 17:12

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