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zoom RSS 絵画論その21 「転換」という発想

<<   作成日時 : 2013/09/01 21:13   >>

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つい最近、絵に関して新たなことに気付きました。
それは、「絵とは別次元のものを平面に写すことである」です。たったこれだけですが私にとっては重要な大発見でした。長い間,絵に携わっていたのに気がつかなかったというのも不思議です。今回はこの話をしましょう。


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▼3次元から2次元への取捨選択
一般的な、被写体を眺めてキャンパスに描く状況を考えます。

まず強調したいのは、この世界と絵の「形」は違うということです。この世界は奥行きもある3次元空間的である一方、絵は2次元です。ようするに世界は縦横奥行の3方向があるのに対して絵は縦と横の2方向だけです。(この世界には時間や匂いなど視覚以外の情報もありますし、それらを含めると何次元にもなる、という考えもできますが、考えないことにします。)とにかく2次元と3次元のものは全然別だということはわかるとおもいます。

ところで、皆さんはそれを意識したことがありますか?
特に絵を描くときに、そのことがどういうことをもたらすのかを考えたことがありますか?

今回お話ししたいのは、この世界そっくりそのままを絵で表現するのは原理的に無理だということです。「原理的」というとなにか難しい話のようですがそうでもありません。ようするに「立体的なものと平面的なものはどう考えても違う世界なのだから、お互いにそのまま丸写しすることはできない」という指摘です。

例えば、駅周辺の光景をそっくりそのままミニチュアで再現することはできます。素材やスケールの違いはあっても、原理的には実物と同じ立体構造が再現できます。しかしそこを絵に描く場合、同じような光景を再現できても、駅周辺「そのもの」ではなくなります。当たり前ですね。

しかし、絵を描くとき、人は皆そのできないはずのことをやろうとしているのです。ではその描くという作業は何をしていることになるでしょうか。答えは「元の立体の情報を、平面に変化させて、移している」です。(ここだけ「写す」ではなく「移す」です。)3次元のものを2次元に変化させているから、写すことができる、ということです。まあこれも言われてみれば当たり前のことでしょう。逆に、2次元に写したければ、現実の情報は何か手を加えない限り、絶対に平面上に写せない、とも言えるのです。この変化のことをこの絵画論では「転換」という言葉を使って説明していきます。


普通の人でも優れた絵描でも、ある光景を描くときはいろいろなことをしています。普通はよく観察して、色を選択し、実際の光景に似せていきます。その過程の中で、元の世界にあるものを削ったり、逆にないものを描きくわえたりすることがあります。初心者は不本意に、ベテランは意図的にですが、していることはどちらも同じです。つまり、現実の情報をそのまま移さず、変化させてキャンパスに表現しています。この作業を私は今、「転換」と呼んでいるのです。

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世間では「カメラは現実の光景を「そのまま」写している」と思われているかもしれませんが、「光の情報をそのまま二次元的に移す」という工程をとっているだけで、やはり現実からの転換であることに違いありません。これは極端に言えば、魚拓みたいなものです。釣った魚と魚拓が同じものでないように、写真と実際の光景も同じではありません。写真は、現実世界の表層部分を写しているにすぎません。その作業をカメラが機械的に転換させています。

転換に関しての基本的な説明はこれで終わりです。しかしここから、いろいろな話ができます。とにかくまずは「絵は何かを平面に転換させることだ」ということを強く意識しておいてほしいです。


▼名画の転換術
美術館にあるようないろいろな名画を見て「なぜこのように描いたのだろう」と思ったことはないでしょうか。それらは「普通に」リアルに描くこともできるでしょうに、何か色や形をぼやかしたり捻じ曲げたりして、「素直に」対象を描いてないように見えます。彼らは、もしも写実的に描こうと思えば、それができたはずの技量の持ち主です。実際にデッサンを見れば、ものすごく精巧に描く技術があることがわかります。一つの理由に「普通に写してもおもしろくないから」、つまり「いかに転換したかを見せたかった」というのがあると思います。いろいろな歴史がある中で一概に言いきってしまうのは危険ですが、そういう一面があるのも確かでしょう。彼らはそのまま風景や対象を描くのではなく、情報を転換して絵にしたのです。

これ以上は語ることや解釈の方法が多すぎるのでやめますが、皆さんももし絵画を見る機会があれば、「この絵はどういう転換をしたのだろうか」という発想で眺めてみてください。何か気づくことが増えるかもしれません。


▼転換させない絵
これのどこが重要なことかわからない、と思うかもしれません。実際これはかなり当たり前のことしか述べていません。ところがたったこれだけの視点からでも、世の中のいろいろな絵について、いろいろなことに気づくことができます。特に、転換させない絵はあるのか、ということまで考えると、いろいろと重要なことがわかってきます。それに関連する「写真と絵の関係」についてまずは話してみましょう。

3次元のものを被写体に絵を描く場合は転換する必要があることは先に述べたとおりです。ところが、被写体が2次元のものを描く場合は、必ずしも転換をする必要はありません。なぜならどちらも同じ2次元なので、「原理的に」そのまま写すことができるからです。「被写体が2次元」とは、例えば、写真や有名な絵画を模写する場合になります。

模写の参考にされる絵や写真は、「現実を切り取り、既に平面に変換し終わっているもの」であると考えられます。特に写真の場合は、1つのデータとしてかなり整理されています。絵も同様に、他の作家によって一度仕上げてあります。こちらは「既に世界の解釈が済んでいるもの」です。これを写す時には、自分で何かを取捨選択したり、転換する必要はありません。平面から平面に、そのまま色や形を写せばいいだけだからです。

一方、現実を被写体に絵を描くときは、その製作者が何かの選択や転換をしています。何をどのようにどうやって描くか、などです。これを考えることが、重要なことなのです。

このように、転換をするのとしないのでは大きな違いがあちります。一部では常識なのかもしれませんが、私は最近になってこのことに気がつきました。さらに私は、この転換の作業こそが「絵の本質」ではないかと、そこまで強く思うのです。ひょっとしたら「写真を単に写してできた絵」は、独立した絵画作品とは本質的に別のものであるかもしれません。私の「絵」という言葉の使い方がちょっと雑すぎる気もしますが、つまりこの2つの同じ「描く」という行為が、実は全く違うことのように思えるのです。


▼写真を写す絵
なぜ写真を写すことに対してそんなに厳しいのか。その理由の一つに、すでに完成品のサンプルがある、ということがあります。完成品のサンプルとは移す対象の写真や名画のことです。絵をいくら描いても思うようにできなくて、完成されたサンプルとして写真を使ってしまう気持ちはよくわかります。私もよくやっています。

これらサンプルは誰かが過去に作ってくれたものです。その時、平面作品にするために、その製作者がいろいろな解釈や編集を行ったはずです。写真も、どこを写すかや色や露出調整などかなり人の手が加わっています。しかしそれを移して絵にするときは、その必要がありません。そのまま、実直にに写せばいいだけになります。その技術があるかどうかはともかく、やるべき内容としてはかなり単純になってしまいます。


さらに、写真を移す絵には困ったこともあります。前も少し触れましたが、写真を使って描く場合、普通の人は、何も考えずにそのまま全てを移してしまう傾向があります。例えば、写真の中の色を確認して、それがもしオレンジ色ならば、そのままそれと同じオレンジ色で塗ろうとします。絵の中の色は、写真と同じ色になれば良い、と考えます。そして全体においてももとの写真とそっくりになるように努めます。

当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、こうすると何故かうまくいかないことが多いのです。


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これはほんの一例にすぎませんが、絵を移していると、このようなことが画面上で無数に現れます。つまり、写真そっくりに描こうとしても、現実そっくりにならないのです。もし描いている絵を現実そっくりにしたければ、自分でアレンジする必要があります。絵の初心者がこういうことを一つ一つ先生に教えてもらったりして対処するのはほぼ不可能です。写真を見て描く作業は、一見簡単なようですが、普通に被写体を見て描くのとはまた別の難点があるのです。


▼自分で「描く」こと
私の美術学校時代からの友人に、行く先々で景色を写生している人がいます。その絵はただ単に景色を写したものではありません。自分の目に映った景色の、心が動いたところをひたすら素直にスケッチしています。

写真ではこういうことを見出しにくい気がします。描くというよりなぞるという作業になってしまうので完成したとしても印象が薄くなりがちです。

多くの人が何度も描いているような、有名な場所ばかり描く場合も同じ弊害があります。先人たちの絵やカレンダーを見ている場合、同じ場所を写生すると、その影響を強く受けてしまいます。それらを再現するように筆を動かしてしまい、やはりつまらないものになってしまいがちです。(もちろん楽しみで描く分なら何の問題もありませんので(参考:絵画論20)そういう意味では全く否定しません。今回はその先にある話です。)

なぜ写真や絵を写すと勢いが無くなるかという理由に「答を写すから」というのが挙げられます。答とはどういうことか。何度も言いますが、参考にする写真も絵も、あらかじめ誰かがこの現実世界を解釈して、平面にまとめたものになります。その際、それらが作品として上手いかどうかは重要ではありません。既に仕上げたものをもう一度写すことが、絵としての意味を薄めさせてしまうのです。

絵や写真から写すと、見た目には、普通に描く画家と同じようなものが描けるようになるかもしれません。しかしそれが上手くなってきたとしても、なかなかその先に進めません。平面でないものを描こうとするとき、ようやくそれがとても難しいことに気づくでしょう。なぜなら実際の光景は誰も平面に収めてくれていないからです。答が無いから、自分で答えを見つけなければならないのです。

ようするに写真を見て絵を描くことは、試験問題で答を見て写しているのと変わらないのです。答を写すことは勉強としては大事ですが、問題の意味や背景も考えずに答を写しているだけならば、何の学習にもならないでしょう。いきなり答えを隠して問題だけ出した場合、はたして回答出来るでしょうか。写真を見て描くことはこれと類似しています。


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▼転換の必要性
先ほど、写真を見て、そのまま描いても絵にならないと説明しました。写真だけでなく現実のものも、見た通りにそのまま描くとうまくいかないことが多いです。なぜ見たままを描いてはいけないのでしょうか。なぜ転換が必要なのでしょうか。最大の理由は「見たとおりに描くとそのものが上手く現れてくれないから」です。見たものを単に写すということは、転換ができていないことになります。コピーのようにそのまま写しても、本来のもののように見えません。逆に言えば「絵としてのものの見せ方」に足りないところがあるのです。特に3次元を2次元にする作業の中では、
何かを省略したり付け加えたりしないと「3次元の中にものがある」ように見えないのです。


例として何かものがたくさんある場合を考えます。ものが十個あったとして、それぞれ個々に十個描いても、なかなか上手く十個のものがあるように見えません。大抵はまとまりのない、ばらばらな絵にになってしまいます。それでも十ならまだ何とか力技でまとまるかもしれません。


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それでは百ならどうでしょう。がんばって百個並べても、見る人は百とわからないし、たぶん絵もごちゃごちゃになります。こういうときは、一と百を表す何かを描く方法を使います。つまり「百」を描くようにするのです。それを見たときに百のものがあるとわかればいいのですから、何も百個律儀に描く必要はありません。ここに工夫、転換があり、こういう積み重ねが画力になります。

ものを百個、真面目に描いてはいけないのか、ということに答えておきます。こういう描き方は、作業量としての驚きになります。いままで誰もやらなかったことをコツコツと積み上げて達成することはすごい技量が必要で素晴らしいことです。

しかし、それは百という「量」に対しての驚きを表しています。では百万はできるかというと今度はおそらく出来ないでしょう。しかし百を描くのと同様に、一億でも百億でも一瞬で同じように表現できる描き方があります。こちらのほうが幅広く活用でき、ストレートに伝わるという意味で身に着けたい絵画技術ではあります。

例としてちょっとわかりにくかったかもしれませんが、絵を描くことはこういうことの連続になります。

▼写真に慣れた目
約100年ほど前から世間に写真が普及しました。それ以前は、一部の人の目によってのみ、世界の平面化が可能だったのです。そしてそれは教会の宗教画、お寺のふすま絵、掛け軸や屏風などで表され、そこに行くことでしか目にすることができなかったのです。写真の普及により、日常光景だけでなく、細部、宇宙、内部、波や動物の一瞬の動きなども見ることができるようになりました。それまで頭の中で想像、工夫するしかなかったものが、「このように見えていますよ」とすべての人に同じように提示されたのです。これは注目すべき点です。

そもそも、人によって世界の見方は違っていたのではないか、と私は考えます。あるいは「見る」というよりも、世界を五感を使って感じていたのかもしれません。気分によって周囲の色も違うだろうし、興味のないものはそこにあっても記憶せず、それは見えていないのと同じことになります。

しかし写真は(写真に限らずその後のディスプレイも含めた平面媒体では)平面画の「模範解答」として、今の私たちに見せ続けてきます。それはレンズを通した出来た、一つの見方にすぎないはずです。この意味がよくわからなければ、生まれてから一度も写真・テレビを見たことない人の目に映る世界を想像してみてください。こうしたことを考えると、「転換」という意味も分かっていただけるかもしれません。

写真やそれに類する2次元媒体はこの世界の見方の一つにすぎません。しかしあまりに普及して、それが「普通・標準」になってしまいました。現代人は言うなれば「写真の目」になってしまっているのです。(造語です。)


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良くも悪くも今の絵画はその影響を強く受けています。(もちろん多くの芸術家やプロはそのようことはないし、あってもおもしろがってわざとやっているところがあります。)別な見方をすれば、それなりの絵が誰でも簡単に描けるようになってきました。何十年も先生に就いて習わなくても、全くの初心者が風景写真を写すことで、きちんとした展覧会に出品できて、楽しんでいる人をたくさん知っています。これはこれで素晴らしいことだと思います。


▼結局どうなのか
私は、写真から絵に写すことが、どういうことになるのかを少し考えてほしいだけです。何か問題に答える場合、もし答えがついていてそれを写しているだけだったら、しかもそれがたくさんある内の平均的な答えであるとしたら、その人の成長は非常に遅くなります。

もらったジグソーパズルをいくらやっても、パズルそのものを自分で作ったり改良したりはできないでしょう。その人独自のジグソーパズルは生まれません。

このように、写しているだけでは、ほかの表現したいものが現れたときにとても苦労するでしょう。なによりも現実が写真の目に慣らされてしまうことが問題なのです。絵画の真骨頂は頭の中のものを描くときに現れます。そのためには自分で転換して描くことが大切です。

この絵画論では一貫してミューズアイを持つことの大切さを主張しています。そういう意味で、写真や絵を写し描くことは、それなりに勉強になる方法の一つです。絵は何をどうやってもすべて自分の栄養になり、表現力には答えも完成もありません。「続ける」ことこそが唯一の上達方法といってもいいでしょう。
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↑私の教室の生徒の作品(製作途中)です。

写して作品にするということはどういうことなのかや、3次元から移すのと2次元から移す違い、その過程にある「転換」という存在、これらを皆さんで改めて感じ、考えていただきたいです。




では、実際にどうやって転換すればいいのか。これを考えることこそ、「絵を描くこと」の醍醐味であり、一人一人の持ち味となるので、それは自分で見つけなければなりません。

とはいえそれではあまりにも無責任なので私なりの説明を次次回しようと思います。
次回は「説明画 〜普通の人が普通に描く絵の特徴〜」です。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
面白いテーマですねぇ・・・携帯電話のデジタルカメラをほとんどの人が携帯している現代・・・写真と絵の違いは、誰もが1度考えなければならないテーマですね。
マミケン
2013/09/03 09:58

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