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zoom RSS 絵画論その20のA 「絵」という言葉による混乱(後篇)

<<   作成日時 : 2013/05/21 20:22   >>

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前半からの続き。

▼別々の山
一般的に、目標を持つこと、向上心を持つことは良いことです。一所懸命続ければ、目標に少しは近づくからです。ただし、これはその道が目標にきちんと通じている場合に言えることです。

これまでの説明を聞いていて、「楽しんで描いているだけでも、ずっと長い間続けているうちに、自然に右の絵のようになるのではないか」と思った人がいるかもしれません。実際、世の中多くの人がそのようにとらえているように思われます。

ところが残念なことに、そうなる可能性は恐ろしく低いです。実際には無理と言っていいと思います。なぜなら、それぞれの目的に沿った練習や基礎訓練が必要だからです。それをせずに要求を満たす絵になるということはちょっと考にくいです。

再掲:意識の差による絵の区分
意識による絵の違い

今度は登山で例えましょう。前篇で挙げた種々の「絵」を描くことそれぞれが、1つの山を登ることに例えられます。このとき、世の中のほとんどの人が、次のように思っているのではないでしょうか。「左にあるAという山の道を登り続ければ、右にあるBという山の頂上(付近)にたどり着く」。ところが、それはありえないことです。なぜならこれらはもともと別の山だからです。

山を登っていて、途中で向こうの山の頂上に登りたいと思ったとします。何をする必要がありますか?そう、一旦下山して、向こうの山のふもとに立たなければなりません。このとき、もとの山でどこまで登っていたかは全く関係無くなります。山を登り直すのが大変なように、絵を切り替えるのも大変なのです。

「既に山登りの経験を積んでいるから、スタートは0からではないだろう」と思うかもしれません。しかし(現実の山と違って)、山ごとに気候、動植物、地図の言語や道の作り方が全く違うと考えて下さい。むしろそれまでの山の知識や先入観、クセが邪魔して、初心者以上にけがや遭難することが多くなることもあります。

頂上が違えば道も違う
絵画において、これらの道がつながっていない、という主張は私の経験則によるものです。2つの道がつながっていないということは、ほとんどの人が気付いていないし、知らないことだと思いますが、確実に言えると思います。しつこいようですがいくらAという山を登っても、Bという山の頂に出ることはありません。もともと違う世界だからです。


▼絵の壁
絵を描いていると「(色々な面で)他の人も自分と同じような精神でやっているのだろう」と思ってしまいがちですが、実際はそうではありません。絵に対する意識や目的は全員バラバラです。それにもかかわらず、「絵の(精神的な)アドバイス」は、大抵簡単な言葉で片付けられてしまいます。それも混乱や問題を生む一因です。

たくさんの絵を一堂に並べた時、他人の絵がうらやましくなることもあるでしょう。しかしそれは技術、意識、目的、環境などの違いが絵に現れただけです。隣の絵に乗り換えようとしても、すぐには出来ません。上にあげたような差、つまり「壁」があるからです。目的の違う絵同士には、見えない壁が歴然と存在します。ほとんどの人がそれを感じられずにおり、問題の根の深さを感じます。

皆さんも一度、いろいろな壁があることを意識してみるといいかもしれません。「壁は必ず頑張って乗り越えなければならない」と言いたいのではありません。壁の存在を自覚できれば、「引き戻る」ことや、「やってみたいから他の場所に移る」、「正面から突破するために万全の準備をする」など、自分なりの対処や覚悟が自覚的に出来るようになるかもしれません。

これは重要なことです。なぜなら、絵を描くのは、理想や理屈ではなく、皆さん個人の現実での出来事だからです。


▼説明する理由
なぜわざわざこういうことを話したのか。この見えない壁にぶつかったとき、ほとんどの人が絵が嫌になるからです。
そして筆をおいてしまうからです。私は、せっかく絵を描くことに興味を覚えたのならば、出来るだけ長く続けてほしいと思っています。絵を描くことに終わりはないはずだからです。それにもかかわらず、思い通りにならないという理由で辞めてしまうのは非常に残念です。

絵に限らず、どんな分野にも壁はあります。自分なりの対応で絵と長く付き合ってほしいので、今回こんな話をしました。


▼余談:暗黙の了解
絵画界ではこのようなことをほとんど指摘しません。なぜでしょうか。

それは、「絵は好きな人が好きで描いている」という大前提があるからだと思います。

学校や仕事場以外で描く、いわゆる趣味の絵(漫画もイラストも含む)は、皆さん誰にも強制されずにやっています。
同様に、「絵の道を志す人は皆、好きだからやっている」という暗黙の了解が、絵画の世界に漂っているように思われます。

するとどうなるのか。「もし何らかの事情で描けなくなったり、好きでなくなったなら、無理してやる必要はない」ということなってしまうのです。だからなかなか上達しなくても、他人からけなされても「好きなのだから続けられるでしょう」
という風に絵画界の住人はふるまうのです。悩め悩め、大いに悩め、そこから得たものこそ上手くなるコツだ、付いて来る人だけ付いて来い、分かる人だけ分かればよい、という大変突き放した教え方です。

このような言葉は各々が心の中で実感するのは当然としても、口に出して皆と共有できるものではないと思います。
(実際、この言葉の意味解釈はばらばらで、共有できていないように思えます。)しかし実際はこのような雰囲気で「絵」を普及させている気がします。

この考え方をもとにすると、「絵のことで困っても、自分で何とかする。これも絵の楽しみの一つだ。楽しくなくなったり嫌いになったり描きたくなくなったとしても、しょせん習い事・芸事なのだから無理することはない。どうとらえるかやどうするかはすべてその人の問題で、問題を自覚していないうちから他人が色々口を出すのは余計なおせっかいだ」ということになります。

つまり、極端に言えば、「始めるのも辞めるのも個人の自由だから好きにしろ」という意見も間違ってないことになります。少し冷たく感じますが、絵に限らず、習いごとはそんなものかなと思えるところもあります。

また、先に挙げた「どのように描いてもそれは「絵」だ。」という考え方について、これはこれで私は全く正しいと思うのですが、当たり前すぎて、意見として何の内容も無い気もするのです。これを使う人は裏の意味を分かっているのでしょうが、一般人(興味無い人)に言っても、何も伝わりません。「戦争はダメだ、平和が一番だ」とか「生きていればそれでよい」という言葉のように、空虚感があります。

世の中に個別の絵画の技法や名画の解説はたくさんあるのに、私のような絵画論が少ないのはこれらの事情があるからかもしれません。いちいち絵の周辺について触れるのは「野暮」「無粋」ということです。私が絵画教室を開いているので特にこういうことが気になるだけかもしれませんが…。


▼「壁」に関する注意
きわどい問題なので注意しておきますが、私は「身の丈に合った絵を描け」と主張しているのではありません。「色々描きたいものがあるのになかなか描けないこと不思議に思ってはいけない」ということです。隠れて見えないかもしれませんが、それぞれの絵にはそれぞれの見方や練習がきっちりとあるのです。どの絵も簡単には出来ないのが普通だと思ってください。

どのような気持ちで絵に接しているのか、その気持ちに正直であれば、いつまでも絵は楽しいままであなたの友達になってくれるでしょう。


今回の話はまだ続くので結論を急がないように願います。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
う〜〜む、難しいテーマですねぇ・・
M本氏がプロのイラストレーターだったことや、現在絵を教えている立場から見える風景な感じがしました。
マミケン
2013/05/27 12:51

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