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zoom RSS 絵画論19 デッサンを語ることについて

<<   作成日時 : 2012/12/29 21:54   >>

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「絵画論18 デッサンは肉体改造!?」の続きです。

▼弊害
より良い絵を描くための練習のひとつとしてデッサンがあるという話をしています。デッサンをすることで、より良く物を見ることが出来て、より自由に手指が動き、より長い時間単調で細かい作業が出来て、気力体力がつき、頭の中に空間が形成され描きたいものが整理して表現できます。こんな機能が身に付くというのならば、それはもう完璧のように見えます。しかし何にでも裏表があるように、デッサンにも裏、つまり弊害があります。デッサンのデメリットとは一体どんなことでしょうか。


▼デッサンは難しい
まずは現実的なことから。

デッサンは鉛筆一本、紙一枚あれば誰でもすぐ始められます。しかし入り口は広くても、出口はとても狭いです。成し遂げるのがとても大変なのです。

特に大変なのが、単調なことをひたすら黙々と続けることです。デッサンは同じことを何度も繰り返ししたり、同じものを何度も繰り返し描く行為です。具体的には、本格的なデッサンなら毎日2〜3時間を週2〜5日で1〜2年かけて行います。感覚的には、小学生のころにやった漢字ドリルと同じようなものです。ひたすら淡々と続けます。あれの数万冊分だと言えば大変さが伝わるでしょうか。とても忍耐力が要求されます。

また、デッサンは「時間が無いと難しい」ということが言えます。学生のうちにやることが多いのはそのせいです。愚直な行為ですが、義務感を与えて、取り組んでもらうのです。

大人の場合、すぐに結果が出ないので、ばかばかしくなって途中でやめてしまう人が多いです。大人になってから「英語マスターセット全20巻セット」みたいなものを高いお金を払って購入しても、結局は2〜3ページで飽きてしまうでしょう。つまりはそういうことです。デッサンにはこういう現実的な問題もあるのです。


▼デッサンは絵が楽しくなくなる
日曜日、あなたは友人に誘われ、キャッチボールで遊ぶjことになったとします。ところが、実際空き地に行ったら、柔軟体操から始め、ランニング、腕立て伏せをしろと友人に指示され、キャッチボールはそのあとだと言われたとします。これはげんなりするでしょう。

同じように、なんとなく庭に咲いた花を描こうと思ったり、絵画教室に行って気楽に絵でも描いてみようと思ったとします。しかし絵画の世界ではまず白い四角の箱を正確に写すことを強要します。「絵を描くならまずデッサンから」ということです。そうしてなかなか当初の目的の絵を描くところまでたどり着けず、やる気を失ってしまうことがあります。

本来やりたかった絵ができなくなってしまいます。これはデッサンによって絵が嫌いにさせられた、と言えます。これもデッサンの持つ功罪です。


▼デッサンはクセがつく
デッサンを習うと、一応それらしく絵が描けたり、無意識に筆が動くようになります。必ずバランスのいい構図をとってしまったり、絵にそつが無くなります。これは、その人にデッサンのテクニックが身に付いたのです。

デッサンを習った人による絵は、習った人同士で必ず分かります。決まった場所に線や色を置いたり、家やビルの窓がそろっていたり、どんなに荒っぽく描いてあっても要所、急所は押さえてしまいます。逆に、これは習った人でないと分からないことでもあります。囲碁で例えると、基本的なルールが分かってても、なぜそういう順序で石を置いていくのかさっぱりわからないものですが、慣れた人同士にはそこに置きたくなる理由(あるいは置いたことによる効果)がわかるようなものです。

ところが、せっかく身に付けたこのデッサンの技術が、絵を描くときに邪魔になってくることがあります。(というよりそれは必ず訪れます。)それはデッサンによって「クセ」がついてしまったからです。どんな絵を描こうとしても、常にデッサンに基づいた絵になってしまい、そこから逃げ切れなくなってしまうのです。

描き方の技術スタイルなどもそうなのですが、特に深刻なクセが「ものに対する見方」です。デッサンでは絵の勉強として、対象物を分解し、それぞれの関係性、全体の整合性、材質の感じ、そしてどの角度からどう見えるか、など、様々なことを考えます。デッサンをすることで体にこれらがプログラムされてしまうのです。

だから新たにいろいろな感じで絵を描こうとしても、綺麗で整った絵が勝手に描けてしまうのです。良いことのように思うかもしれませんが、そうでもありません。クセにより、本来自由で幅広いはずだった絵画世界が、画一化してしまうのです。つまり、自分で世界を狭めてしまったです。これでは絵に面白味が欠けてしまいます。

デッサンは絵を描くための手段の一つです。その技術は万能工作機械のような道具にすぎません。導入すれば、何でも楽で正確に同じものが作れます。しかしオリジナル性や面白味といったことはそれとは別の話です。デッサンの技術はこういった数値化出来ないことが苦手です。料理で例えるなら、工場で作られている料理は安定していて万人がおいしいと言うけど、手作り料理ほどの魅力が出ない…といった感じです。


▼戻れない
「それではデッサンの技術を無視して絵を描けばいいではないか」と思うかもしれません。ところがこれがものすごくものすごく大変なのです。たちの悪いことに、一度絵をデッサンという方法で勉強してしまった人は、もう知らなかった頃の自分には2度と戻ることはできません。すると、先程も書いた通り、昔の感性は失われて元に戻らなくなります。これが非常に怖いことなのです。デッサンを使って先に進むしか道は無くなります。(しかも、このことに気付かないことが多い。)

デッサンという形式にのっとって「自由に」絵を描こうとしても、制約が多いので逆に「委縮」してしまうことが多いです。デッサンは見方や表し方の単なる練習技術です。よく習得しないで絵を描こうとすると、かえってぎこちなさが出てしまいます。


▼デッサンは絵が描けなくなる
結果的には、絵が思ったように描けなくなります。初めの説明と矛盾しているようですが実際に起きていることです。
自分の思いとは別に、体が勝手に動くので、絵も勝手に出来てしまうのです。これでは自分の絵を描いている気持ちになりません。

そういうものだと本人が納得すれば問題無いのでしょうが、上手く描けないことで自信を失い、描くことを辞めてしまう人も出てきてしまいます。これはデッサンを実際にやってみた人でないと実感として伝わらないのが悩ましいのですが。


デッサンをしても色々と大変だということが分かっていただけたでしょうか。


絵画やデッサンを山登りで例えてみます。
▼山登りの例え

近年、グループで山歩きを楽しむ中高年の方が増えました。ここにもAさんという趣味で近くの山登りを始めた主婦がいるとします。Aさんは日帰りでちょっとした丘を軽装で歩き、四季折々の風景を眺め、おしゃべりとしながら楽しんでいます。とても素敵なことです。

彼女は何も将来険しい山に登るための練習手段として山に登っているわけではありません。山に登る一番大きい理由は、「楽しいから」でしょう。これと同様に、絵を趣味で描く場合も、まず楽しむことが重要です。上手い下手は二の次です。

庭先に咲いた花々を色鉛筆で描いたり、もらった果物をはがきに絵の具で描いて友人に送るなど、描いているその時も楽しいし、出来上がった絵も壁に飾ったり人に贈って喜ばれたりします。また、近所の絵画教室でおやつをつまんだり世間話をしながら絵を描くと言う楽しいひと時を過ごすのも最高でしょう。このように、自分の目的に応じて楽しんで親しむのが大切だと思います。

このとき、花や葉の形をスケッチしたり、鉛筆で何度か下書きしたり、果物一つ一つを別の紙に描いてそれを組み合わせてみたり、上手く描けるまでいろいろ試行錯誤することがあると思います。これは山歩きで例えると、前もって当日の天気を調べたり、お弁当を食べる場所を検討したり、朝の集合時間やルートをきちんと確認することに当たります。どちらの場合も、ただ楽しむだけでなく、調べたり考えたり詳しい人に尋ねたりして、自分の技量を少しずつアップさせています。

大抵は、きちんと調べなくても大体何とかなりますし、困ったら途中下山すればいいでしょう。それでもスムースに山に登れるように、あらかじめ確認することは大事なことです。当たり前ですが。


さて、Aさんの隣に住んでいるBという青年が、Aさんと同じように、山歩きが好きだと言っていることがわかりました。ところが、このBさんは朝からランニングしたり、リュックに石を入れて近所を歩きまわったり、ロープの使い方やテントの張り方、天気図の読み方、英語やドイツ語などまで勉強しています。さらにアルバイトをして資金まで集めています。

画像


山が好きなら毎週私たちと近くの山へ行きましょうと誘っても、一度付き合っただけ。彼はもっと険しい山に登りたいと言って日夜登山の研究しています。気楽に山に登っているAさんからすれば「ただ山に登るのにあんなことをしなくてはならないのかな」と思ってしまいます。

デッサンはこれに相当します。これとはもちろんBさんがやっていることです。

山登りにも当然色々あります。何回も行ってよく知ってる近所の山と、海外の8000m級の登頂を目指すのでは楽しみ方、求めるものが違ってきます。当然必要なことも違ってきます。厳しい環境や予想が難しい、幾多のトラブルが待ち構えている登山には、強靭な体力と気力、準備と装備が必要なことはわかるでしょう。この本格的な登山を目指すための基礎体力作りが、絵画では「デッサン」と呼ばれる特殊作画練習となるのです。


このように書くと「近所の山歩きより本格的な登山の方が優れている」と錯覚する人がいるかもしれません。それは全く違います。「趣味で描いてばかりいないでデッサンをするべき」とか「デッサンをした方が良い」と主張しているのではありません。

考えればわかるように、AさんとBさんでは目的や価値観が違います。これは優劣がつけられる問題ではないのです。「高い山に登れるのは凄い」かもしれません。だからといって「近所の山に登ることは無意味だ」とはなりません。どちらも山登りを楽しめばよいのです。

さらに言えば、山に登るために体力をつけていたはずなのに、いつのまにか体力づくりばかりして山に登らなくなったような人が大勢います。また、他のスポーツに目移りしたり、無理な訓練で体を壊してしまう人もいます。デッサンもこれと同じようなものだと思ってください。




さて、ここまでデッサンの効果についてまとめてみました。「結局デッサンは絵の役に立つの?立たないの?」とやきもきしてる方も多いと思います。そこで、デッサンと併せて押さえておきたい「アカデミック」という視点について語っておきたいと思います・。


▼アカデミック
昔からいろんな偉人が名画を描いてきました。そんな絵画の歴史が、デッサンを通じて理解できることがあります。つまり、昔の名画を描いた人たちと同じデッサンを練習をすることで、彼らがどのようにしてその絵を描いたのか、さらにどんな気持ちで描いたのか、これらが分かるようになるのです。

これは、デッサンが昔から表現芸術の共通認識として機能していたということによります。エジプトの象形文字がロゼッタストーンの存在で解読できたように、過去の視覚芸術もデッサンを通して理解しやすくなるという効果があります。

難しい言い方になってしまいました。つまり、昔から今に至るまで続いている、同じ「絵の練習法」を学ぶことで、昔の人の作品も解釈できるということです。(ダヴィンチやピカソがやった練習と同じことが体験できる、というとすごい気がしませんか?)

そういう意味で、デッサンは絵の世界の共通認識のひとつとして機能しています。特に、絵画業界の「アカデミック」と呼ばれる部分が、デッサンに基づく価値観で成り立っています。アカデミックとは日本語で言うと学術的、学会的、学問的ということです。絵画の世界はデッサンを基にした西洋絵画の基準で出来ているのです。

実は我々は知らないうちに、「絵画」に対して、この決められた価値観を押し付けられています。そして、古今東西全ての絵画は、この「アカデミックな基準に対してどうなのか」という考え方で評価されています。いわゆる普通の西洋絵画だけでなく、それ以外の、抽象画も、浮世絵も、山水画も、アフリカのプリミティブアートも、全てこれで評価されます。単なる落書きであってもです。サバン症などの特殊な感覚の絵であろうと例外ではありません。

これがどういうことを意味するのか。例えば、物理や数学などの学術論文は、英語で書かなければ、世界で注目されることはありません。いくら内容が良くても、日本語みたいなマイナー言語で書いては駄目です。それでも時間がたてば有名になることがあります。それは他の人が英語に訳したか、英語圏の人に見つかって英語で紹介される場合です。結局、学術論文は英語を通すことでしか世界に認められません。

絵画も同じです。独学やそれぞれのグループでおもしろい絵を描いても、なかなか認められにくいところがあります。
悲しいことに、世界的に認められるには「アカデミック」という制約の舞台に立つことが求められます。デッサンはそういう位置づけでもあるのです。

当然アカデミックでない絵の世界もたくさんあります。アカデミックでないといけないと言う話でもありません。これは理屈や理論や理想の話ではありません。単なる今の世界の現状です。

この考え方はあまりに自然に世の中に溶け込んででいるのでほとんどの人がこの状況に気付いていません。
指摘している人もあまりいないように思います。しかしこれは極めて重要なことだと私は思います。


▼デッサンについて語ること
もう一度デッサンについて考えてみます。

デッサンすることは身体能力を高め、それによってより多くのことが表現できることだと前回書きました。それによって失うものもあるというのが今回の前半のテーマです。しかしこういったデッサンの功罪を考えること自体、デッサンを基本としたアカデミックな絵画世界での話となってしまうのです。

デッサンをすることは、絵の描き方や見方に対して一定のある基準を押し付けられることになります。当然それに反発する人も多いのですが、その反発自体もデッサンを意識しなければならないというジレンマがあります。それは例えるなら、お釈迦様の掌から飛び出そうとする孫悟空のようです。あるいは思春期の子の親や社会への反発といってもいいですが。

だからデッサンを離れたつもりで、いろいろな絵画技法を提唱したとしても、その評価方法は「アカデミックが認めた上手な絵に対しての〜」という立場になってしまいます。そもそも評価する人がアカデミックな人なことが大半なのですから。

これらを踏まえると、極論だけれどもデッサンについて(要不要論など)あれこれ語ることは、その特殊性ゆえ、デッサンを少しでも経験した人でないと難しいと思います。特に、「絵を描くのにデッサンはいらない、必要が無い」とはっきり言い切る人がいたとしたら、その人はデッサンをやったことある人だと断定できます。

デッサンはいらないという意見があります。これはデッサンをすることにより失うものの方が大きいと考えての意見でしょう。その真偽はともかく、この意見の検討はデッサンを既にやったことがある人達によって行われることになります。あるいはデッサンをしていない人の意見は汲み上げられにくいという事情もあります。

これをどう思うかです。

意見が間違っているというわけではない。私もどちらかというと正しいと思います。だとしても何かもやっとしたものが残るでしょう。デッサンに関する話で私が一番強く思うのはここです。絵画の世界もややこしいのです。

こういう例は絵画に限らず世間にもあると思います。高学歴の人が「大学なんて行っても無駄だ」と言ったり、都会暮らしの人が「田舎暮らしっていいよね」と言ったり、お金に不自由しない立場の人が「お金なんて無くても幸せだ」などと言うのを聞いたことがあるでしょう。まあどれも微妙にニュアンスは違うのでしょうが、「デッサン」というものの位置が(さらに私の言いたいことも)何となくお分かりいただけると思います。

そのまま「絵画論番外編2」へ続く。

うさうさ堂の絵画論の一覧<絵画論記事のまとめ>



編集推敲担当:まとめるの難しすぎ。

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内 容 ニックネーム/日時
デッサンは「リアルに描きたい」時の1つの「絵画タッチ」でいいような気がしています。僕は。
マミケン
2013/01/08 17:01

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